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 私の海外履歴は、現在の北朝鮮から戦後引揚、35歳で転職し1年後に東パキスタン(現在バングラデシュ)へ。ここを皮切りに、次々と海外へ長期あるいは短期の出張が続いた。
 乗り継ぎの1泊を含め、訪れた国は19年間で24か国に上った。そのほとんどが会社の出張であり、ついでに足を延ばして観光で訪れた国も多い。1年以上現地で暮らしたのはバングラデシュとトルコで、イランには約半年いた。その他は数日から2週間程度の出張だった。
 隣国であり私の出生地でもある韓国は縁が深く、会社出張で4回訪れ、退職後に始めた日本語教師の仲間と、また71歳の時に人工股関節手術の2年後に1人のんびり10日間巡ってきた。
 夫婦での海外旅行は、退職後にアメリカ東海岸を個人旅行で15日間楽しんできた。
 出張で訪れた多くの地域がいわゆる辺境の地で、旅行会社のツアーでは企画されることはないだろう。そんな地で珍しい風物を見聞し、人種の異なる人たちと会ったのは私の望むところだった。
 それらを紀行文として退職後にまとめていたが、見易いようにホームページとしても公開したいと考えた。
 私がいた会社は海外の仕事が多く、従って多くの社員が出張で海外へ出かけている。その中には、飛行機事故で、また山賊に襲われ、病気で亡くなった者もいた。私も同様に飛び回っていたが、幸いにも大きな事故や病気には会わなかった。ただ、ぎっくり腰と下肢腱断裂で2回飛行機に横になったまま帰国したことがあった。また、飛行中にフィリピン上空でエアポケットに入り恐怖の落下を味わったこと、ソウル上空で豪雨のため着陸できず済州島まで避難したことで冷や汗をかいたこと、ボリビアでアンデス颪に煽られたプロペラ機が糸の切れた凧のように舞い肝を冷やしたことぐらいだ。

Prologue

​澳門(Macau)

   1971年、バングラデシュからの帰国途中、香港から日帰りでマカオへ行ってきた。
当時、香港からは快速艇で1時間弱で到着した。この時は同じ帰国休暇の同僚と一緒だった。
 東洋のラスベガスとも呼ばれるマカオは、ポルトガル領だったが、1999年に中国へ返還された。
日本の製紙会社の会長が100億円を超える借金をしてマカオカジノで消費した件はかなり世間を賑わしたものだ。私たちも当然の如く公認賭博場に向かった。ルーレットの賭け方を教えてもらい、わずかの掛け金で2万円を稼ぎ、賭博は引き際が肝心と早々に引き上げたものだ。            

 マカオには世界遺産の聖ポール天主堂跡があり、教会は火災により

僅かに前面壁のみが残った。江戸時代に迫害された日本人クリスチ

ャンが多くこの地に亡命し、この天主堂建設に携わったという。

天草四郎は天草の乱で江戸幕府に敗れ、斬首されたと言われている

が、敗れることを予知していた天草四郎は、影武者を置き、本人は

落城前に間道を抜け、ポルトガル船に乗ってマカオに渡り、神父に

なって神に仕えた、という伝説が残っているそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

​ 聖ポール天主堂の石段を登り、天主堂を抜けると、世界遺産「モンテの砦」がある。教会と一体となる要塞の一部で、砲台が城壁の上に残っており、オランダやスペインの攻撃を退けたとある。
 他にもマカオならではの遺跡があり、日帰りの時間を気にしながら巡っていた。
中華民国建国の父と呼ばれる孫文(中山)は現在も台湾で国父と崇められている。

現在のマカオは遺跡やカジノ以外に様々な娯楽施設を揃え、一大観光地として人気を得ているとのことだ。

 

                                                                     

                                                                       モンテ砦の大砲台

 

 

 

 

​                       中国革命の父 孫文記念館​
 

Bangladesh  1969-1973  1985

​   尿素肥料工場の建設が始まると近隣から見物客が、また日雇いに、そして物売りが来る。

それらの中で裸足でピーナッツを売りにくる少女に人気があった。

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 ​​私が初めてダッカの空港に到着した1969年時のカルチャー・ショックは大変なものだった。初めての海外ということもあったが、やはりこの国ゆえのものだろう。しかし、その後この国に慣れるまでにそんなに時間はかからなかった。そしてここでの数年の経験が、その後いかなる国へ行っても驚かない下地を作ってくれた。
 バングラデシュ国土の大半は、ガンジスとプラマプトラの両大河が合流する大デルタ地帯に位置し、東ベンガルと呼ばれる。西ベンガルはインド領域になる。人種はベンガル人でベンガル語を話す。以前は英領だったので英語を話せる人は多い。5月から10月にかけての雨期には、国土の大半が水の下に沈む。雨期前にはサイクロン(ベンガル湾特有の台風)が暴れ廻り、豪雨と突風と雷鳴がベンガル平野を襲う。サイクロンと満潮が重なった時は、ベンガル湾の高波が人も家畜も家屋さえも押し流し、そのたびに毎年のように何百何千の人命が奪われる。それでもベンガル人はこの土地にしがみつき、細々とした生活を続けている。
 雨期が終わり、冠水が引ける頃、強烈な太陽が輝き、国土一面が新しい緑に変身する。
 バングラデシユの国旗は、日本の国旗の白地部分を緑色に変えただけでよく似ているが、これはこの太陽と緑の大地を表わしている。​

 バングラデシュの首都ダッカの朝夕、通りは人とリキシャ(自転車の人力車)で埋まる。自由を求め、東パキスタンからバングラデシュとして独立した東ベンガルの民は、自由は得られたが、経済的には自立が難しかった。独立前と相も変わらず、貧しさの中で黙々と働いており、なんら変わるものではなかった。ダッカの町は、農村からの流民でますます窮乏者が増え、もっとも手っ取り早い職業であるリキシヤ運転手と、乞食が街に溢れていた。幼児と老人の死亡率は高いのに、人口は増加の一方であり、人口問題がこの国の主要課題であることは明らかだった。産業や軍備の前に、教育と娯楽と家庭の照明が急務と、私は真面目に考えたこともあった。 WHOも同じ考えらしく、幾たびも専門家を派遣しては保健教育と産児制限の普及に努めたが、その努力も空しいようだ。

ある日、中流と思う家庭の結婚式に招かれた。多くの招待客に料理が振る舞われ、派手な演出で式を盛り上げていた。悦びの2人を撮ると子供が一緒にと群がってきた。
バングラデシュは大河が多い。そのために道路が寸断され、鉄道は直線50キロを 200キロも迂回することになり、これらが経済の発展を大きく阻害している。独立前は、東パキスタンの発展を望まない西パキスタンの謀略によって、わざと橋が架けられなかったとか、インドの侵攻を防ぐためだとか言われていた。事実、印パ戦争では、インド軍は地上部隊の速攻が遅れたために、かなりの落下傘部隊を出動させて勝利に導いたと言われている。独立後、日本からの援助で、日本の土建会社によって、ダッカへ入る国道の一つに大きな橋が架けられた。この橋をバスやトラックが通るようになって、ずいぶん地元の人たちに便利になったようだが、この国では必要とされる橋はまだまだ不足している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 雨期、大地が水の下に沈むとき、この国特産のジュートの原料となる黄麻が水面に顔を出している。収穫されたジュートは帆掛舟で大河を運ばれる。往年には一大産業であったジュートで作った麻袋は、世界的にプラスチックに代えられ、だいぶ苦戦している。が、最近は環境問題で、地球に優しい繊維として、麻袋だけでなく、衣料やカーペットとしても輸出され、ジュート産業が復活しているようだ。
 ノーベル賞を受賞したベンガル出身の詩聖タゴールは、ベンガルの風土を愛し、多くの詩を残した。しかし、ベンガルは豊かな大地と共に苛酷な自然を併せ持っており、彼らの生活はこれからも困難の道を歩むことであろう。私としては因縁浅からぬこの国、今で  ジュートを運ぶ帆掛舟
も気にかかるところであり、ジュートも頑張れと応援したい。

​注;記事の内容は私が駐在していた時代のことであり、その後独立を果たし、東南アジアの諸国と同様に経済は発展している。従って、現在の社会の様相はかなり異なってきているものと思われる。

​詩聖タゴールの有名な言葉

「魂の永遠の自由は愛の中に

 偉大なものは小さなものの中に

 無限は形態の絆の中に見出される」

タゴール.jpg

ダッカへ向かう列車はルンギを着けた男性で溢れる(ルンギとは一般男性が着けている腰巻)
 

ジュートを運ぶ帆掛け船

地方の豪族の邸宅と令嬢

 高校の運動会で恥らう女生徒

水を運ぶ裸足の少女

White Structure

   HongKong・Thailand  1969 - 1985

 

                 香港では蛋民と呼ばれる海上生活者が多く、

                 物好きな私は小舟で湾内を渡り、彼らの船内

                 に案内してもらった。

                 

  バンコックでは市内の観光や買物

  に飽きて市街に出、ホテルやレス

  トランの食材供給を担う農村から

  の小舟を見に行く。

 

 1970年当時、東パキスタン(現バングラデシュ)へ入るには、香港かバンコック経由でしか行かれなかった。そしてほとんどの場合、香港かバンコックで一泊して翌日パキスタン航空機に乗り換え、東パキスタンの首都ダッカへ入っていた。
 会社は海外渡航者が多いので、旅行関係の子会社があり、ビザやチケット、更に持ち出し外貨や保険関係など全てその子会社が手配していた。従って、どこの空港で乗り換えなのか、当日なのか一泊なのか全て指図通りで、海外の素人が自由に選べるものではなかった。どちらに寄るかは、パキスタン航空の運航スケジュールで決まっていたのだろう。
 首都ダッカへは独立戦争を挟んで足かけ3年の間に9回往復しているが、その後も改造工事などで往復していた。イランやイラクへの出張でも香港かバンコック経由が多く、たまにシンガポール経由もあった。
 8冊の旅券を見るとHongKongとThailandの入国出国スタンプがやたらに目に付くのも頷ける。
 当時、香港には我々に馴染みのガイドがいて飲食や観光に、また土産物屋や免税店に案内してくれた。当時の香港免税店は世界で最も安価に輸入品を購入できたようだ。私も旅慣れてきたころ、香港でゴルフクラブセットを買ったり、ローレックス腕時計を買ったりしたが、当時既にフェーク商品が出回っており、私の小遣いで買える商品だったのか疑わしいものである。会社の仲間や自分用にナポレオンやスコッチや老酒を、あるいはフランスの石鹸などを土産用に買って帰った。最近押入れを整理していたらそのフランスの石鹸が出てきたので使い始めた。十数本あった酒類は10年ぐらい前に年代物として期待して売り払ったが期待は裏切られた。
 バンコックでは象牙の小卓や本立てなどを帰国の度に買ったものだ。バンコックは当時から観光都市として世界でも有名で、我々は通常二流ホテルに泊まるのだが、バングラでは藁マットだったので帰途時のホテルでの宿泊が心身を癒してくれた。
 クアラルンプールへ行ったとき、商社がホテルを手配してくれたことがあり、ヒルトンホテルに泊まった。50年前にホテルは既に禁煙階が指定されており、食堂も喫煙者は分離されていた。これに感動した私はこれを機に40歳代に禁煙に踏み切り今に至っている。
 乗換一泊となるとけっこう空き時間があり、香港でもバンコックでもよく街を見て廻り、時には市街を離れ周辺まで足を延ばしていた。香港島の山頂へ中国本土を見に行ったり、金満香港人のお屋敷を見学したり、バンコックではお寺や動物園に行ったり郊外を案内してもらった。
 これら香港やバンコックでのことはバングラデシュでのきびしい生活での気晴らしとなっていた。

香港から未だ発展途上の中国本土を望む

 

         ​ワットトライミット寺院の黄金佛

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